熊本地震 × 東日本大震災 被災者対談特集

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震災体験談

近所の人や避難先、消防団、ボランティア等、多くの方々の支援に助けられた

震災体験談9 【熊本地震体験者/35歳/女性】

私は震度7が2回あった益城町の中でも島田地区、全体の7割の家屋が全半壊した被害が大きかった地域に母と2人で住んでいます。
本震の時は、とにかく外に出なきゃいけないと思って、まず靴下を履いて、それから携帯といつも持っているバッグと、iPadを持って、とりあえず家の外に飛び出しました。
しばらくしてから家の中に入って、ブレーカーを落とし、ガス栓を閉めました。
ただ、プロパンガスは外のボンベの元栓まで閉めておかなきゃいけないらしくて、近所の人に「プロパンの元栓は閉めた?」と言われたので、もう1回戻って閉めて、外にしばらく母と2人で立っていました。

とにかく何の準備もないところにいきなりだったので、丈夫な建物に隠れたいというよりむしろ、周囲に何もない所に行きたくて、集落から離れて田んぼか畑の真っ暗な所に2人で立っていました。
そうしたところ、近所の人は、このままだと家が倒れて車がつぶれてしまう。そうなると後が大変だということで、車を動かして幅の広い道路に止めていたのですが、その路肩も崩れ始めました。そこへ、近くのお店の方が駐車場所を提供してくれました。

テレビでニュースを見ていたのですが、今ひとつ状況が分からず、特に益城町の状況がよく分からなくて困りました。
益城町だけなのか、それとも熊本県全体なのか、九州全体なのか、すぐには全容がつかめなくて、ただすごいサイレンの音がひっきりなしに近づいたり遠のいたりしているので益城全体は同じような状況なのかと思っていました。

それからSNSで調べ始めたところ、不明確な情報が多くて困りました。
動植物園からライオンが逃げたとか、ショッピングモールが火事で駄目だとか。
うちからショッピングモールが少し見えるんですが、緊急車両が集まっていたのか、本当に赤く燃えているように見えました。だから本当に燃えているんだと当時は思いましたね。

明るくなってから、熊本市の東区の妹の家に、夫婦2人、体ひとつで向かいました。普段なら車で10分ぐらいあれば行けるところが、2時間半ぐらいかかりました。
周囲はとにかく川が多くて、ほぼ全ての橋が落ちているか、橋と道路に1メートル以上の段差ができていて、車が通れる状態ではなかったですね。迂回に次ぐ迂回だったので結局そのぐらい時間がかかったのですが、どんな小さな橋にも必ず人が立っていて、車が通るたびに迂回路など誘導していたことには感心しました。

それで私たちは妹の家で本震に遭うわけですが、新築の家がミシミシいいだしたので「逃げよう」と近くの小学校に、毛布を持って子ども3人と一緒に逃げました。
日本人はすごいなと思うのが、皆さん混乱している状態ですから、われ先にと奥から突っ込んできそうなのに、皆さん結構きれいに車で整列して並んでいるんです。そうして逃げて、車中泊が何日か始まりました。

その後の避難所での生活ですが、避難所におけるリーダーの重要性を痛感しました。
私が避難していた小学校では校長先生が先頭に立って、強いリーダーシップで、卒業生を指揮してお年寄りをサポートさせたり、トイレの使い方などを決めたり、最初からどんどん決めていました。
2、3日支援物資が来なかったときにも、校長先生が「ご近所にお住まいの方で、家に入っても大丈夫という方がいれば、カセットコンロとガスボンベと、お米と何か食べ物も持って来てください」とおっしゃって。
2日ぐらいは少ないながらも自分たちの避難所だけでご飯は食べることができました。

別の避難所の話を聞くと、トイレの使い方などを決めておかなかったために、使いっぱなし、流しっぱなしの状態だったそうです。
室内にも土足禁止ではなかったので、汚いびちゃびちゃのトイレを使ったまま土足で入って、そこにみんなが寝ているというような状況のところもあったようです。
それに対して私たちは、トイレの水を卒業生が1回1回ちゃんと入れて、一人ひとりに「使ったら紙は脇に廃棄してください」と、使い方を指導していました。

揺れが収まってからは、自宅に帰る人や、親戚の家に身を寄せるなど動き始めましたが、道がとにかく悪くて、通れない所が多かったので、通れる道が分かる自動車会社提供のアプリがすごく役に立ちました。

別参加者:益城町のご自宅を出たとき、鍵はどうされましたか?

鍵をかけちゃいけないとか、車のことも鍵を付けたまま逃げなきゃいけない、ということは知ってはいたのですが、本当に信じられないことに、泥棒がすごく多くて、いろいろと聞いてもいましたので、きちんと戸締りしました。
「どこそこにいます」という張り紙も、結局留守を他人に教えることになってしまうということで、張りませんでした。
迷彩服を着て、自衛隊っぽい服装の泥棒もいたようです。
自衛隊風の格好とか、安全靴を履いて、ヘルメットをかぶっていかにもボランティアというような格好をしている。

別参加者:あと、日ごろの町内会などでの付き合いは、結構ありましたか?

そうですね、世代で分かれると思うんです。近所の唯一のつながりは消防団です。
小学校も一緒の男の子たちは、ある程度の年齢になったら、みんな消防団に入るので、そこでつながります。逆に、私たち女性の方が外にお嫁に行ってしまったり、地元に住んでいても分からなくなったりしています。
私はガス漏れや水漏れが一番やっぱり心配だったので、消防団の方たちが何時間もかけて、担当の地域全部回って、ガス漏れ、水漏れがないかをチェックしてくれたので、とても安心しました。

別参加者:1日~2日は自助・共助、それともう1つが「近助」。近所同士の助け合いは大事だと思います。あとNPOのボランティアの人とはうまくいきましたか。

ボランティアの方々には本当に感謝しました。
納屋に車を1台置いたまま、その納屋がつぶれてしまったのですが、依頼したらいきなり重機を持ってきて、5、6人がかりで車を出してくれて、とりあえず近くの整備工場まで運ぶことができました。

災害ごみは当初、分けなくていいという話だったので、割れた陶器や燃える物なども全部一緒にして捨てていました。
それが少し経つと「分けてください」ということになり、ゴミ袋をまた開けて分別しました。そういう作業をボランティアの方が一緒に手伝ってくださいました。

別参加者:東日本大震災の時は、自分たちで段ボールを使って仕切りを作っていたようですが、今は仕切り用の段ボールもあって、とても進化していると感じます。

別参加者:東日本大震災の経験が行政にも相当役に立ったと思います。いろいろなことがスピーディーでしたね。

別参加者:建築家の●●さんは、阪神淡路大震災で人が建物に押しつぶされて亡くなる人が多かったのを見て、倒れてきてもけがをしない段ボールや紙で避難スペースを作ったそうですが、今回は益城町や御船町で自ら手伝ってくれました。

※意見は参加者個人の主観であり、発言内容について、有効性を保証するものではありません。

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